大判例

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東京高等裁判所 昭和41年(う)2603号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役六月に処する。

原審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

所論は、原判決は本件窃盗事犯につき、「被告人を懲役一年に処する。ただしこの裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予する。なお右期間中被告人を保護観察に付する。」との判決を言い渡したが、被告人にはすでに昭和四一年三月一二日台東簡易裁判所において別の窃盗罪により懲役一年、五年間執行猶予、付保護観察の判決の言渡を受けた前科があり、本件犯行は右保護観察の期間内に更になされたものであるから、刑法第二五条第二項但書により本件についてかさねて刑の執行猶予を言い渡すことはできないわけであるのに、原判決は再び刑の執行猶予を言い渡したのであるから、法令の適用を誤つたものであり、破棄を免れないと主張する。

よつて案ずるに、当審で取り調べた昭和四一年一一月七日付前科調書及び調書判決謄本によれば、被告人は、昭和四一年三月一二日台東簡易裁判所において窃盗罪により懲役一年、五年間執行猶予、付保護観察の判決の言渡を受け、同判決は同月二七日確定したことが明らかであり、そして、その後右保護観察について仮解除処分がなされたとの事実も認められないから、原判決が、右保護観察付執行猶予の期間内の本件犯罪について、原審で提出された右前科事犯についての付保護観察の記載の脱漏した前科照会回答書に基づき、刑法第二五条第二項但書ではなくして、同項本文を適用して、かさねて刑の執行猶予の言渡をしたのは、結局、刑の執行猶予の要件に関する前科事実の認定を誤り、ひいては法令の適用を誤つたものであるというべく、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由がある。

ところで、弁護人は、検察官の本件控訴は、原判決における刑事訴訟法第三八〇条の法令適用の誤りをその理由とするものであるが、右法令適用の誤りとは、認定された事実に対し正しく法令を適用しなかつた場合をいうことは勿論であり、しかして原判決は、被告人の前科が保護観察付執行猶予であると認めながら再度執行を猶予したのではなく、同前科は保護観察付でない単純な執行猶予であるとして再度執行を猶予したのであるから、認定した前科事実に対し正しく法令を適用しているものというべく、本件控訴申立は明らかに刑事訴訟法第三八〇条の事由に該当しないから直ちに不適法として棄却されるべきであると主張する。

よつて検討するるに、刑事訴訟法第三八〇条の法令適用の誤りとは、認定された事実に対して正当に法令が適用されていない場合をいうものであることは、弁護人主張のとおりであるが、本件控訴趣意書をみるに、検察官は、保護観察付でない単純な執行猶予の前科であるのに再度執行猶予したのが法令適用の誤りであるとはもとよりいつておらず、前科が実際は保護観察付執行猶予であるのに、前科照会回答書の記載洩れによるとはいえ、単純な執行猶予であるとして再度執行猶予したのであるから、前科事実を誤認し、ひいては法令の適用を誤つたとの趣旨の主張をしているものであることが、その主張事実の内容自体によつて容易に看取されるから、本件控訴申立が単なる法令適用の誤りを主張しているものであるということを前提とする弁護人の主張は採用できない。

しかし、他方、原審においては、前科が保護観察付であるとは主張も立証もされておらず、かえつて、保護観察付でない単純な執行猶予と記載された前科照会回答書が提出されたのであるから、原判決がこれに基づいて前科の執行猶予が保護観察付でないと認定したのはむしろ当然であり、しかして、同法第三八二条の控訴申立理由たる事実誤認とは、原審における適法な証拠調の結果当然に認定されるべき事実が現に原判決の認定した事実に合致しない場合をいうのであるから、本件において原判決が原審で適法に証拠調をした前科照会回答書に基づいてした前科に関する事実認定は、たとえ結果において真実の前科事実と符合しなかつたとはいえ、これを直接同法第三八二条の事実誤認に該当するということもできないのである。

かくして、当審において、原判決を変更して、被告人に対する真実の前科事実を認定するには、同法第三八二条の拡張規定ともいうべき同法第三八二条の二によつて新たな前科調書等につき取調をするほかないこととなるのであるが、弁護人は同法条により新たな前科調書等につき取調請求ができるのは、同条第一項により明らかなごとく、「やむを得ない事由」によつて第一審の弁論終結前にその取調を請求することができなかつた場合に限るのであり、しかして本件においては、原審で検察官が真実に符合する前科調書等を提出することは、極めて容易であつたのであり、これを提出し得なかつたことが「やむを得ない事由」によるとは到底認められないから、当審における検察官の右前科調書等の取調請求は不適法であると主張する。

よつて考察するに、前科調書が判決手続において重大な法的効力を有することに鑑みれば、その作成、提出に当つてはいやしくも記載洩れまたは誤記等の誤謬が存しないよう慎重に処理すべきは当然であつて、誤謬の都度「不手際」によるとして軽く看過することはできないのであるが、他方検察官が本件控訴趣意書中で当審において提出予定なる旨明記している確定判決謄本及び同判決に基づく前科調書の性格及びその作成名義人に合わせて、なおその後提出された疎明資料によつていつそう明らかとなつた前科調書等の作成過程の実情に思いをいたせば、当該事務処理の実際にあたる検察事務官において時に本件におけるような記載洩れの如き手ちがいを犯すこともまたやむを得ないところであるといわざるを得ないし(かくいえばとて、もとよりその過誤を容認する趣旨でないことはいうまでもない)、また原審検察官が検察事務官の手落ちによつて本件の如き初犯についての保護観察付の記載を脱漏した真実に反する前科照会回答書を真実なものと誤信して提出したからといつて、それが当該検察官のかけひきであるといえないことは勿論であるのみならず、またそれを目して一概に同検察官の怠慢であると断じ去るわけにもいかない(ちなみに被告人の司法警察員及び検察官各面前調書の記載さらには原審における被告人本人の供述を査閲しても、右前刑の執行猶予が保護観察付なることを容易に看取するに足るふしも存在しない)。

とすれば、右記載洩れを補正して新たに作成された前科調書は、同法第三八二条の二第一項にいわゆる「やむを得ない事由によつて第一審の弁論終結前に取調を請求することができなかつた証拠」に該当し、これを前科についての客観的に真正な事実に沿う証拠として検察官が控訴審で取調請求をすることは同条項によつて許されるものといわざるを得ない。

なお弁護人は前記「やむを得ない事由」については、これを疎明する資料を控訴趣意書に添付すべきことが、同法第三八二条の二第三項により命ぜられているにかかわらず、本件控訴趣意書には右疎明資料は添付されておらず、後に提出されたのであるから、本件控訴は不適法なものであると主張する。

しかしながら本件控訴趣意書には、前記の如く保護観察付執行猶予の立証のため原審で取調べた前科照会回答書に替えて控訴審において確定判決謄本及び同判決に基づく前科調書を提出する予定なる旨明記されているのであるから、右各書類の性格及びその作成名義人ないし被告人の従前における自己の前科内容の供述等にも徴し、前記「やむを得ない事由」についての疎明が全くなされていないとまではいえないばかりでなく、同法第三八二条の二第三項の疎明資料は必ずしも控訴趣意書に添付されたものに限らず、その後控訴審において提出されたものでも、これを取り調べ得るものと解せられる余地もないわけではないから(同法第三九三条第一項参照)、所要の疎明資料が控訴趣意書に添付されていないため不適法なものであるとすることはできない。更に弁護人は、検察官は刑事訴訟法第三七六条第一項により指定期間内に控訴趣意書を控訴裁判所に差し出さなければならない。ここに検察官とは、本件でいえば、本件控訴裁判所に対応する東京高等検察庁所属の検察官でなければならぬことは、検察庁法第五条の定めるところである。しかるに検察官提出の控訴趣意書の作成名義人は新宿区検察庁検察官江幡修三となつており、東京高等検察庁の検察官ではないから、本件控訴趣意書の提出は検察官の職務権限を定めた検察庁法第五条に牴触するものであつて、結局適法な控訴趣意書の提出がなかつたことに帰し、本件控訴は不適法として棄却されるべきであると主張する。

しかしながら本件控訴趣意書提出書をみるに、その名義人は東京高等検察庁検事塚谷悟となつているうえに、同書面本文には「控訴申立の理由として控訴趣意書を提出する」と記載されており、そしてこの書面に新宿区検察庁検察官事務取扱検事江幡修三作成名義の控訴趣意書と題する書面が添付されている。これによれば東京高等検察庁検事塚谷悟は、右新宿区検察庁検察官事務取扱検事江幡修三作成名義の控訴趣意書をそのまま全面的に引用して、自己の控訴趣意書として提出したものと解することができるから、適法な控訴趣意書の提出がなかつたとはいえない。弁護人の主張はいずれも採用できない。

以上の次第で、検察官の本件控訴は理由があるから、刑事訴訟法第三九七条により原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により直ちに当裁判所において判決することとし、原判決が証拠により確定した事実に刑法第二三五条、刑事訴訟法第一八一条第一項本文を適用して、前刑の執行猶予の保護観察付であることが発見されるに至つた経緯等をも含めたいつさいの情状を勘案して主文のとおり判決する。(樋口 勝 関 重夫 金末和雄)

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